6月にオーストリア訪問レポートを書いて以来、ずいぶんと間が空いてしまいましたが第2回です。
オーストリア・オーガニック協会(BIO Austria)理事でワイン生産者のヴェルナー・ミヒリッツ氏のインタヴューから。
ミヒリッツ氏の農場はウィーン南駅より急行列車で1時間20分ほどのパムハーゲンにあります。ここはハンガリーとの国境の町で、彼の農場は国境を越えてハンガリー側にもあります。かつては共産圏だったハンガリーも、今ではEUに入っているので、国境とは名ばかり、無人の検問所址が残ってはいるものの、まあ県境みたいなものです。
ハンガリー国境
オーストリアには約2万軒のオーガニック農家があり、オーガニック転換中を含めて20%の農地がオーガニック化されています。そのうち1万4千軒がBIO Austriaに加盟しています。たくさんのオーガニック農家がひとつの団体に集まることで、政府に対しても提言ができ、助成金も一本化して有効に使えるのだそうです。実際BIO Austriaの年間活動予算のうち30%以上が助成金ですし、政府委託事業を含めて60%以上が政府のお金です。ロビー活動にも力を入れています。また、スーパーなど流通との取り組みの窓口が一本化されることにより、オーガニック市場での生産者の力を強めると共に、流通側からも一緒の取り組みがやり易くなって、オーガニックの発展に役立っています。
しかし、これだけたくさんの農家がオーガニック化したのはなぜでしょう。ミヒリッツ氏は、農家にオーガニックを強制するのではなく、オーガニックをやりたいという気持ちを持ってもらうことが大切だと言います。蝶が飛びバッタが跳ね、様々な花が咲き乱れるのが本来の畑の姿。この自然がたっぷりの中で働くことが、化学肥料と農薬で作られた不自然な環境の中で働くよりもずっと健康だし、気持ちいいということを農家に知らせることが大事なのです。
オーストリア政府が国家政策としてRDP(地方発展政策)を推し進める中、BIO Austria は農家とのインターフェースとしての役割を担ってきたのです。
オーガニック農業は同じ規模の一般農家に比べて収入はいくらか多くなりますが、労働力を多く必要とするので、一人当たり収入は若干少ないのが実情です。これを補うのが助成金で、つまり公共事業なのです。都会の税金を地方に投入する。これをいかにスマートに行なうか。BIO Austria の活動はそこに焦点が合っているように思えます。
ミヒリッツ氏は2003年にオーガニック転換した、30代の若いオーガニックワイン生産者です。この若さがオーストリアの事情を象徴しています。
90年代、オーストリアのオーガニック農業は飛躍的に拡大しました。オーガニック農産物や製品の市場は隣国ドイツです。しかし当時オーストリアワインは国外市場ではほとんど受け入れられていなかったのです。理由は1985年の偽装ワイン事件。オーストリアのメーカーがジエチレングリコールをワインに混入させることで、糖度を高めて安物ワインを高級ワインとして売ったのです。オーストリアワインはボイコットされ、国際市場から完全に姿を消しました。そのため90年代でもオーストリアのオーガニックワインには売り先がありませんでした。事件から立ち直るために、オーストリア政府はヨーロッパで最も厳しいワイン法を制定して、どこの国でも当たり前の香料添加を禁止しました。旧世代の生産者たちは発言力を失い、息子たちは外国に留学して最新のテクノロジーを学びました。そして政府の指導が効果を発揮してステンレスタンクなどの最新醸造設備が次々に導入されたのです。
オーストリアワインは2003年から2005年ころにかけて、一変します。
父親世代が90年代にしっかりとオーガニックで土作りしたブドウ畑からは、品質の高いオーガニックブドウが獲れる様になっており、そこに最新の設備と息子世代が持ち込んだ醸造技術が合わさったのです。キレのいいワインが次々と生まれだしました。オーストリアワインのくすんだイメージは急速に払拭されつつあります。
元々ハプスブルグ王朝の都ウィーンは美食の街。舌の肥えた宮廷貴族たちによって磨かれたオーストリアワインは極めて上質なものでした。ところが化学農業と化学醸造で大衆化や偽装が起きて品質も下がり、信用を失ってしまったのです。
そのオーストリア帝国のワインを蘇らせたコンセプトが「オーガニック+ハイテク」なのです。
田村安
マヴィ代表
著書の「オーガニックワインの本」(春秋社刊)でグルマン・クックブック・アワード
日本書部門2004年ベストワインブック賞を受賞
フランス政府より農事功労章シュヴァリエ勲章受勲
ボルドーワイン騎士Connétablie de Guyenne